食べかけのシーラカンス

正座して書いてますので正座してお読みください

プロパンガス

今朝セブンイレブンの前でプロパンガスを運ぶトラックを見た。荷台で揺られながら缶同士がぶつかってゴン、ゴン、と鳴っていた。少し高いようで、しかし太い音で。あれは空(カラ)の音なのか、充填後の音なのか。

ガス屋のおやじだけが知っているのだろう。

 

こういうのを集めようと思います。

 

 

英語で言えばメイドインジャパン、ドモアリガットミスターロボットでおなじみの、精巧さが売りの日本製である。しかし日本語で書かれていることを考慮すればそれは国外にではなく、国内へ向けたアピールだということがわかる。国民の日本製への信頼感、安心感。愛国心の様なものへ向けたアピールだと思う。

 

アメリカの工業においてはどうだろう。【made in U.S.】

英語圏ではこの記載があっても、その商品が内部消費を目的としたものか国外市場へ売りだすものか、わからない。

 

100均などの激安商品のパッケージでは、多言語での商品説明を目にすることができる。多言語といっても翻訳のクオリティは100均のそれである。まずベースの言語で説明文を作り、それを数か国、google翻訳にかけただけの様な説明文、いささか違和感のある和訳がSNS上にツッコミとともにポストされバズっているのも見たことがある。翻訳こそ残念であっても、多言語での説明文、これらの商品が国外市場へ向けたものだということは明らかである。

 

日本製

made in JAPAN

この商品は日本製です

 

並べてみると、上二つとは印象も違う。文章にすることで丁寧さが増したように思える。それは“丁寧な日本製”をアピールすることや、購入者を(通行時にたまたま見かけただけの人も)敬い大切にしていますよ、という“お客様は神様”的な要素も含んでいると思う。

 

考えすぎかもしれない。しかし集めてみれば、判ることもあるだろう。とかく、今は集める

重回帰分析なら、俺の右に出る者はいないし左に寄り添う人もいない

俺はいつも独りぼっちで泣いている

 

 

 

大家さんの唇

今朝、俺の店が地元ラジオで紹介されていたらしい。

メディアで紹介される程有名になったのか、非常にうれしい話だ。しかしこの件に関して放送局からの事前連絡などは一切なかったので、恐らく教えてくれた人の勘違いだと思う。

教えてくれたのは大家さんだ。温厚な70歳くらいの男性、おじいさんというよりもおじいちゃんという感じの優しい人だ。

大家さんはいつもびっくりするくらい大きい声であいさつしてくる。たまに店の商品もテイクアウトしてくれる。

 

今朝この話教えてくれた時、大家さんの唇がハチャメチャに切れていた、切れるというよりも、ちぎれていた。やばいなこれはと思った。血が固まっていた。口の周り一杯にケチャップをつけて、紙ナプキンでさっと拭いた、みたいな感じだった。俺はちぎれる唇にビビってしまって、話が全然入ってこなかった。大家さんは自分のことの様に嬉しそうに報告してくれた。俺は(と、とりあえずお礼を…!)と思い、ビビりながらだが『あ、ありがとうございます!!』と、結構大きめの返事をしてしまった。(もし居酒屋の注文時にこれくらいの掛け声を聞いたら、う~ん、慣れ…てはないかぁ?入って2週間ぐらい、それも居酒屋バイトは初めて、元気な子ではあるよな。掛け声にもそろそろ慣れてきたけど、まだ少し恥ずかしさが残る、後一か月すればすっかりホール回せてそうな女子専門学生(友達が来た時には恥ずかしさを意識するけど頑張って声のボリューム下げないタイプの子だ!)と予想するだろうな)

 

大家さんは俺の大声レスには何もなかったかのように、にこにこして去っていた。いつも挨拶、おおきいもんなぁ

会社員

女子高生がいるマクドナルドというのは高知県にあるのだろうか。

 

そこではフリとオチがしっかり効いた話や、テンポのいい漫才の様な会話、意外な所からの核心をついた意見でハッとする体験ができるそうだ…

しかし昨今ではこれらのエピソードはインターネット大好きメンによって全て作り話扱いされる様になった。『そんな都合のいい出来事が起こるか!』『その会話、漫画みたいな言い回しだなw』などと。信じるか信じないかというのは、結局、受け手に委ねられているのだが、この手の話を嫌っている連中が芸人のエピソードトークを聞いて同じように作り話だと批判するのか、それとも笑っているのかは気になるところである。つまり他人の話というのはどれも同じような要素を含んでいるといえる。

夢の話などその最たるものだろうが、まあ聞いてくれ

 

俺はよく遅刻する夢を見る。その舞台は様々で、アルバイトや待ち合わせ、ある時は学生時代に戻って朝礼に遅刻することもある。例によって今朝も遅刻の夢を見た。俺は前日の深酒が祟って気づけばすでに始業時間であった。とりあえず身支度を整え家を出る。オフィスに到着するまで、ドキドキしながら言い訳を考え、そして反省していた。出社するとオフィスの偉い人が(見覚えのある顔)俺に説教して、俺はすごい落ち込んだ。という夢なのだが、起きてしばらくは動機が止まらなかった。

 

しかし、夢である。俺は一安心した。

 

いつものように家を出て、自転車をこいでいるときに今朝の夢を思い出していた。

俺は高校を中退した後、店を出すまでアルバイト(しかも飲食店)でずっとやってきたから、会社で働いたことなんかないし、スーツも着たことがない。電車に乗って出勤したこともないし、上司とかの役職も店長と副店長しか見たことがない。そんな乏しい知識の中で頑張って頑張って、夜中の脳が、俺に『会社に遅刻する』経験をさせてくれたのかと思うと、たまらなく自分の脳が愛おしくなった。

 

良い夢見させてくれたよな

黄色い自転車の思い出

昔の話をする。

校庭の周りにやたらと、“入ってはいけない近隣の方の土地”のある公立小学校を卒業した俺はそこそこお行儀のいいことで評判な地元の公立中学校に通っていた。毎日片道30分かけて自転車で通学していた。入学当時乗っていた自転車は、姉のおさがりの銀色のしっかりしたママチャリであった。切り替えが3段階くらいあり、実用的な日本の製品という感じであったが、中2に上がるころに思春期真っ盛りを迎えた俺は『丈夫で頑丈』『切り替えで坂道も楽々』の様な便利機能のついた自転車の”補助されている感じ”が強烈に恥ずかしく思えて1年間の愛用自転車を捨てた。次の”愛車”として選んだのは見るからに安い素材で作られ、ギアの切り替えもなく、ホームセンターで1台9000円で売られていた黄色の自転車である。それを黒のペンキで奇抜な柄にに塗り上げ、俺たちは”愛棒”になった。黄色の自転車は遅かったし、疲労感が強かった。雨に濡れたグレーチングの上で何度もこけた、よそ見をしていて畑にこけたこともあった。素材が安いのですぐにボロボロなったがそれでよかった。俺が買って(小遣いであったが)、俺が塗って、俺がボロボロにして、だんだん自転車が俺に似てきた気もした。15歳にもなって便利自転車を乗っている同級生のことをダサイ奴と見下していた。

 

俺の通っていたそこそこお行儀のいい学校では、通学時のヘルメット着用が規則だった。クラスの地味な奴も運動部の体のでかい奴も、かわいい女子もみなヘルメットを被っていた。白くピカピカのヘルメットはダサかったので、俺は意識して粗雑に扱い、「擦れ傷」をつけてかっこよくした。だから15歳にもなって白くピカピカのヘルメットを被っている同級生のことをダサい奴と見下していた。

 

話は変わる。俺は中学校では優秀な生徒だったと思う。規模も小さかったから、今思えば大した成績ではないが、それなりに教職員や生徒からの信頼はあった。半面、黄色と黒の自転車で登校するような人間だから、目立っていた、目立つゆえにアンチもいたし、教職員の信頼も全面的なものでは無く、内心では厄介者扱いされていただろう。それでも本人はいたって順風満帆に中学生活を過ごしていた。

 

ただ一人、俺が心底嫌っていた教師がいた。その人物を盛田(仮)としよう。盛田は体育の教師で50歳前後、がっちりとした体をしており、いつも威圧的な腕組みのポーズで校内を歩いていた。彼は我々の学年の生活指導を担当しており、主に、頭髪の規則を破った者に「〇日までに切ってきます」という約束を言わせることと、外にある喫煙所へ向かうための“チョイ出”用のスリッパを履きやすいように整頓することを仕事としていた。

 

盛田もまた俺を嫌っており、何かと俺に突っかかって、訳のわからないことを注意してきた。論理的思考が全くの苦手で、持論が正しいことを前提に次の持論を展開するものだから、一度、そもそもの前提がおかしいことを指摘したら、混乱して、腕を組んだまま死にかけていた。

 

まあ実際はさにあらず指摘など恐れて言えず、お説教が終わった後、連れに愚痴を言って笑い話にしていたのであるが。

 

中三にもなれば校内で恐れることなどなく、多くの生徒がヤンキー要素を帯び始めてきたが、俺たちの学校はそこそこお行儀のいい学校であったために、尾崎豊的反抗といっても、せいぜい買い食い、ケータイの持ち込み、二人乗り、くらいのものである。

俺はその時生徒会長だったのだが、これは名ばかりで信頼も責任も以前と大差なく、他の学生の例に漏れず数々の“ワル”をした。

 

忘れもせぬ、9月とかそこ辺り。俺はすっかり部活を引退し、生徒会長の任も果たしてさらなるフリーダムを謳歌していた。その日、いつもの連中といつもの帰り道、俺は歌っていた。レミオロメンの粉雪を歌っていた。

ちんちんに毛が生えてくると何故か俺の声はガラガラと変化し、また変化の最中であった俺には粉雪のサビの「こなぁぁア↑↑」のところがどうしても難しかった。またそれは南国土佐で生まれ育ったが故、脳みそが粉雪のイメージを引き出すのに負荷が大きかった為かも知れぬ。

 

(虚しい~ぃ~……だぁ~け~…)最高に盛り上がるサビがやってきた。

連れはもはや俺の歌など聞いてなかったと思うが、4人、自転車は2列で歩道を占拠し走行する。

(こなアアアァァ↑↓あ”)

うしろから怒鳴り声が聞こえた。盛田だった。あろうことか俺たちはヘルメットの紐を閉めないという”ワル”をしていた。やばいな、と説教を確信した次の瞬間、盛田が俺の顔をにらみ

「今、奇声を上げていたのは誰だ」といった。

おそらく俺だ。明らかに俺の背後から緊張感が消えた。おそらくこれは俺だけ怒られるパターンだからだ。

「しかも紐も閉めてないじゃないか」

ワルは平等に裁きを受けなくてはね。うしろを振り返る。連中は既に紐を占めていた。俺だけ怒られるんだな。

 

必死の弁明も聞かず(盛田は10秒以上他人の話を聞くと頭がパンクするから)、俺は歌っていただけなのに、反省文400字10枚分が課された。翌日学校に行ってみると、「靴のかかとを踏んでいた」というワルも追加されていた。ちょっと待て、俺はそんな育ちの悪いことはしていない。反省文はかなり伸ばして薄めて7枚かけた。靴のかかとのワルも有って良かった。

 

この話を、地元の同級生と合うことがあればかなりの頻度でしているのだが、いつ話してもそれなりにウケる。成人して当時の状況など振り返ってみれば、黒と黄色のボロボロの自転車に乗り、ボロボロのヘルメットをブカブカにかぶり、大声で歌って目立とうとしていた学生、それを注意した教師。どちらがまともか。自明の理である。これから年を重ねるにつれ、皆の笑うポイントが「うざかった先生」ではなく「恥ずかしいセンスの俺」になってくるだろうな。

 

自転車は一度坂道で大ゴケしホイールが曲がって以来、実家のガレージの裏に置いてある。同級生の皆が、どうしてもつらいことがあったら、俺が当時の格好で会いに行こうと思う。黄色いチャリに乗って

石垣上の空論

俺の店の前面は大きなガラス戸で、店内からは、道路の向かい高さ1mほどの石垣が見えている。石垣には立派な松の木が数本、つつじの木や背の高い雑草がその根元を隠すように生えている。暇な時間はガラス越しにその茂みを眺めているのだが、どうやらこの石垣には蝶々がよく飛んでいる。

これは一般的な茂みにおいては普通のことなのかもしれないが、蝶々なんぞ追わなくなり十数年、彼らがどういった場所に生息していたのか、当時の記憶が皆無である俺にとって、この石垣は蝶々がよく居る場所だと認識される。

 

さかのぼること2か月、日本は記録的な大雨や台風に見舞われ、自然災害の恐ろしさを国民が再認識した夏であった。

来店するのは近所の変わり者と地元の連れの数人、電気代だけで赤字を垂れ流すような台風の日に俺が心配していたのは売り上げでも、飛来する危険物でもない。石垣の蝶々である。体重数グラム、やわらかい羽根や脆い関節。大阪では看板が飛んだと聞くが、ここ高知でも風は強く吹いており、蜘蛛の巣も自力で解けないような彼らが果たして、この嵐を無事で過ごせるのだろうか。

次の日、蝶々はいなかった。折れた枝葉が積もった石垣の上は、ガラス戸越しにはとても静かであった。

そのまた次の日、蝶々はいた。数匹飛んでいた。すっかり晴れた空に、夏の蒸し暑さをもろともせず彼らは飛んでいた。蝉の声が響いていた。ガラス戸越しにもそれは聞こえた。

 

さて、俺はこの記事を『蝶々さん生きててよかったね』でくくるつもりはない。気になるのである。本題はここからである。諸君、注目し給え、本題は短いのである。

 

俺は、今この石垣の上を飛んでいる蝶々は九州から来たのだと考えた。いや、別に九州でなく他の地方でもよいのだが。つまりは台風によって、やはり蝶々は吹き飛ばされており、飛ばされた先で新たに生活を始める。我々の知らぬところで各地の蝶々たちがシャッフルされているのだと。この仮説、いかがであろうか。薄い羽根で懸命に強風に立ち向かう、か細い足で枝葉にしがみつく、物陰に身を潜めて耐え忍ぶ。その説には無理が生じやしないだろうか。

 

俺はうれしくなって、来客があれば毎回この仮説を話していた。

一応インターネットでも調べたがそれらしい答えは得れず、バタフライエフェクトの関連記事がヒットするばかりで(不思議なことに、自説のエビデンスもヒットしないが反対の説についても一切の記載がないと、これは新発見ゆえになんの情報もヒットしないのだ!と、あまつさえ俺は自説の信ぴょう性が高まるのを感じていたのだった。)、もはや俺の口を閉じるものなど甘いキッスぐらいのものであった。

 

真実は違った。彼らは物陰にて台風一過を過ごしているそうな。来店して俺の説を聞かされるや否や、えらく黙りこんでしまった女は、すっかり色の薄くなったアイスラテを前に俺にそう教えてくれた。一体Googleの何個目のo(オー)まで辿ったのか想像もつかぬが、ギガといえば通信量を意味する昨今に、全く有難い話だ。この女来店2回目である。(…普通、なんというかな、ウキウキの話の腰を折っていいのはサ、もうちょっと回数きて打ち解けてからなんだよ)

その後しばらくは、自説を聞かせ、事実は違いました~の様に小さなオチのある話として活躍したエピソードであったが、同じ人に2度話したり、時事的なズレから肌感覚でウケを感じなくなり、また自分も飽きてきたので最近ではしていない。来年の夏が来ればまたこの話をしている気もする。