食べかけのシーラカンス

正座して書いてますので正座してお読みください

黄色い自転車の思い出

昔の話をする。

校庭の周りにやたらと、“入ってはいけない近隣の方の土地”のある公立小学校を卒業した俺はそこそこお行儀のいいことで評判な地元の公立中学校に通っていた。毎日片道30分かけて自転車で通学していた。入学当時乗っていた自転車は、姉のおさがりの銀色のしっかりしたママチャリであった。切り替えが3段階くらいあり、実用的な日本の製品という感じであったが、中2に上がるころに思春期真っ盛りを迎えた俺は『丈夫で頑丈』『切り替えで坂道も楽々』の様な便利機能のついた自転車の”補助されている感じ”が強烈に恥ずかしく思えて1年間の愛用自転車を捨てた。次の”愛車”として選んだのは見るからに安い素材で作られ、ギアの切り替えもなく、ホームセンターで1台9000円で売られていた黄色の自転車である。それを黒のペンキで奇抜な柄にに塗り上げ、俺たちは”愛棒”になった。黄色の自転車は遅かったし、疲労感が強かった。雨に濡れたグレーチングの上で何度もこけた、よそ見をしていて畑にこけたこともあった。素材が安いのですぐにボロボロなったがそれでよかった。俺が買って(小遣いであったが)、俺が塗って、俺がボロボロにして、だんだん自転車が俺に似てきた気もした。15歳にもなって便利自転車を乗っている同級生のことをダサイ奴と見下していた。

 

俺の通っていたそこそこお行儀のいい学校では、通学時のヘルメット着用が規則だった。クラスの地味な奴も運動部の体のでかい奴も、かわいい女子もみなヘルメットを被っていた。白くピカピカのヘルメットはダサかったので、俺は意識して粗雑に扱い、「擦れ傷」をつけてかっこよくした。だから15歳にもなって白くピカピカのヘルメットを被っている同級生のことをダサい奴と見下していた。

 

話は変わる。俺は中学校では優秀な生徒だったと思う。規模も小さかったから、今思えば大した成績ではないが、それなりに教職員や生徒からの信頼はあった。半面、黄色と黒の自転車で登校するような人間だから、目立っていた、目立つゆえにアンチもいたし、教職員の信頼も全面的なものでは無く、内心では厄介者扱いされていただろう。それでも本人はいたって順風満帆に中学生活を過ごしていた。

 

ただ一人、俺が心底嫌っていた教師がいた。その人物を盛田(仮)としよう。盛田は体育の教師で50歳前後、がっちりとした体をしており、いつも威圧的な腕組みのポーズで校内を歩いていた。彼は我々の学年の生活指導を担当しており、主に、頭髪の規則を破った者に「〇日までに切ってきます」という約束を言わせることと、外にある喫煙所へ向かうための“チョイ出”用のスリッパを履きやすいように整頓することを仕事としていた。

 

盛田もまた俺を嫌っており、何かと俺に突っかかって、訳のわからないことを注意してきた。論理的思考が全くの苦手で、持論が正しいことを前提に次の持論を展開するものだから、一度、そもそもの前提がおかしいことを指摘したら、混乱して、腕を組んだまま死にかけていた。

 

まあ実際はさにあらず指摘など恐れて言えず、お説教が終わった後、連れに愚痴を言って笑い話にしていたのであるが。

 

中三にもなれば校内で恐れることなどなく、多くの生徒がヤンキー要素を帯び始めてきたが、俺たちの学校はそこそこお行儀のいい学校であったために、尾崎豊的反抗といっても、せいぜい買い食い、ケータイの持ち込み、二人乗り、くらいのものである。

俺はその時生徒会長だったのだが、これは名ばかりで信頼も責任も以前と大差なく、他の学生の例に漏れず数々の“ワル”をした。

 

忘れもせぬ、9月とかそこ辺り。俺はすっかり部活を引退し、生徒会長の任も果たしてさらなるフリーダムを謳歌していた。その日、いつもの連中といつもの帰り道、俺は歌っていた。レミオロメンの粉雪を歌っていた。

ちんちんに毛が生えてくると何故か俺の声はガラガラと変化し、また変化の最中であった俺には粉雪のサビの「こなぁぁア↑↑」のところがどうしても難しかった。またそれは南国土佐で生まれ育ったが故、脳みそが粉雪のイメージを引き出すのに負荷が大きかった為かも知れぬ。

 

(虚しい~ぃ~……だぁ~け~…)最高に盛り上がるサビがやってきた。

連れはもはや俺の歌など聞いてなかったと思うが、4人、自転車は2列で歩道を占拠し走行する。

(こなアアアァァ↑↓あ”)

うしろから怒鳴り声が聞こえた。盛田だった。あろうことか俺たちはヘルメットの紐を閉めないという”ワル”をしていた。やばいな、と説教を確信した次の瞬間、盛田が俺の顔をにらみ

「今、奇声を上げていたのは誰だ」といった。

おそらく俺だ。明らかに俺の背後から緊張感が消えた。おそらくこれは俺だけ怒られるパターンだからだ。

「しかも紐も閉めてないじゃないか」

ワルは平等に裁きを受けなくてはね。うしろを振り返る。連中は既に紐を占めていた。俺だけ怒られるんだな。

 

必死の弁明も聞かず(盛田は10秒以上他人の話を聞くと頭がパンクするから)、俺は歌っていただけなのに、反省文400字10枚分が課された。翌日学校に行ってみると、「靴のかかとを踏んでいた」というワルも追加されていた。ちょっと待て、俺はそんな育ちの悪いことはしていない。反省文はかなり伸ばして薄めて7枚かけた。靴のかかとのワルも有って良かった。

 

この話を、地元の同級生と合うことがあればかなりの頻度でしているのだが、いつ話してもそれなりにウケる。成人して当時の状況など振り返ってみれば、黒と黄色のボロボロの自転車に乗り、ボロボロのヘルメットをブカブカにかぶり、大声で歌って目立とうとしていた学生、それを注意した教師。どちらがまともか。自明の理である。これから年を重ねるにつれ、皆の笑うポイントが「うざかった先生」ではなく「恥ずかしいセンスの俺」になってくるだろうな。

 

自転車は一度坂道で大ゴケしホイールが曲がって以来、実家のガレージの裏に置いてある。同級生の皆が、どうしてもつらいことがあったら、俺が当時の格好で会いに行こうと思う。黄色いチャリに乗って