食べかけのシーラカンス

正座して書いてますので正座してお読みください

石垣上の空論

俺の店の前面は大きなガラス戸で、店内からは、道路の向かい高さ1mほどの石垣が見えている。石垣には立派な松の木が数本、つつじの木や背の高い雑草がその根元を隠すように生えている。暇な時間はガラス越しにその茂みを眺めているのだが、どうやらこの石垣には蝶々がよく飛んでいる。

これは一般的な茂みにおいては普通のことなのかもしれないが、蝶々なんぞ追わなくなり十数年、彼らがどういった場所に生息していたのか、当時の記憶が皆無である俺にとって、この石垣は蝶々がよく居る場所だと認識される。

 

さかのぼること2か月、日本は記録的な大雨や台風に見舞われ、自然災害の恐ろしさを国民が再認識した夏であった。

来店するのは近所の変わり者と地元の連れの数人、電気代だけで赤字を垂れ流すような台風の日に俺が心配していたのは売り上げでも、飛来する危険物でもない。石垣の蝶々である。体重数グラム、やわらかい羽根や脆い関節。大阪では看板が飛んだと聞くが、ここ高知でも風は強く吹いており、蜘蛛の巣も自力で解けないような彼らが果たして、この嵐を無事で過ごせるのだろうか。

次の日、蝶々はいなかった。折れた枝葉が積もった石垣の上は、ガラス戸越しにはとても静かであった。

そのまた次の日、蝶々はいた。数匹飛んでいた。すっかり晴れた空に、夏の蒸し暑さをもろともせず彼らは飛んでいた。蝉の声が響いていた。ガラス戸越しにもそれは聞こえた。

 

さて、俺はこの記事を『蝶々さん生きててよかったね』でくくるつもりはない。気になるのである。本題はここからである。諸君、注目し給え、本題は短いのである。

 

俺は、今この石垣の上を飛んでいる蝶々は九州から来たのだと考えた。いや、別に九州でなく他の地方でもよいのだが。つまりは台風によって、やはり蝶々は吹き飛ばされており、飛ばされた先で新たに生活を始める。我々の知らぬところで各地の蝶々たちがシャッフルされているのだと。この仮説、いかがであろうか。薄い羽根で懸命に強風に立ち向かう、か細い足で枝葉にしがみつく、物陰に身を潜めて耐え忍ぶ。その説には無理が生じやしないだろうか。

 

俺はうれしくなって、来客があれば毎回この仮説を話していた。

一応インターネットでも調べたがそれらしい答えは得れず、バタフライエフェクトの関連記事がヒットするばかりで(不思議なことに、自説のエビデンスもヒットしないが反対の説についても一切の記載がないと、これは新発見ゆえになんの情報もヒットしないのだ!と、あまつさえ俺は自説の信ぴょう性が高まるのを感じていたのだった。)、もはや俺の口を閉じるものなど甘いキッスぐらいのものであった。

 

真実は違った。彼らは物陰にて台風一過を過ごしているそうな。来店して俺の説を聞かされるや否や、えらく黙りこんでしまった女は、すっかり色の薄くなったアイスラテを前に俺にそう教えてくれた。一体Googleの何個目のo(オー)まで辿ったのか想像もつかぬが、ギガといえば通信量を意味する昨今に、全く有難い話だ。この女来店2回目である。(…普通、なんというかな、ウキウキの話の腰を折っていいのはサ、もうちょっと回数きて打ち解けてからなんだよ)

その後しばらくは、自説を聞かせ、事実は違いました~の様に小さなオチのある話として活躍したエピソードであったが、同じ人に2度話したり、時事的なズレから肌感覚でウケを感じなくなり、また自分も飽きてきたので最近ではしていない。来年の夏が来ればまたこの話をしている気もする。